■才能以外にも、12代沈壽官が飛躍した要因があったのではないか。
昨年11月末に、鹿児島の薩摩焼の中心地「美山」に行ってきました。
美山は、秀吉の朝鮮出兵の時に、陶工を連れてきたことが始まりで、薩摩焼の産地として栄えました。現在でも窯元が20〜30位集まっています。
美山の窯元でも、とても有名なのが、沈壽官の窯です。
東京・日本橋の三越で個展を開いた時、45,000人の来場者を記録したことからも、その人気ぶりがうかがえます。朝鮮の貴族だった初代の沈壽官から数えると、現在は15代目が活躍しています。
沈壽官窯の門をくぐり、まず目を奪われたのは、庭、建物などの造形の美しさです。作品以外のことにも神経を遣う徹底した美意識を感じました。敷地内をしばらく散策し、作品を販売する店や工房を見学した後、同じ敷地内にある沈壽官の博物館を訪れました。
博物館で、初代から15代までの歴代の作品を鑑賞して、印象的だったことがあります。それは「12代の時に、作品の精巧さ、美的価値が飛躍的に向上している」ことです。
12代が「天才」と評されていることは、予めウェブサイトを見て知っていました。
しかし、窯や博物館を実際に訪れて感じたのは、才能だけではなく、周囲の期待や環境の変化といった外的要因が12代の飛躍に大きく寄与しているということです。
■「外からの刺激」が飛躍をもたらしたのではないか。
12代が活躍したのは、幕末から明治にかけての激動の時代です。
薩摩藩の焼き物工場の工長を務めた12代は藩からの重い期待を背負っていました。藩が、薩摩焼を輸出産業として発展させることを目指し、パリ万博に作品を出品することになったからです。
さらに、明治維新後は、窯を取り巻く環境が大きく変化しました。江戸時代は薩摩藩のお抱えとして、守られた環境の中で芸の道に打ち込むことができましたが、明治維新後は窯が民営化され、自ら事業を運営する責任を負うことになりました。
このような激動の時代背景の中で作られた彼の作品は、ヨーロッパの貴族達にも高い評価を受け、1900年のパリ万博では銅賞に輝きました。
つまり、周囲の期待と環境の変化という「外からの刺激」にさらされたことが、12代が突き抜けて質の高い作品を生み出す原動力の一つになったと考えられます。作品を見る人が目の肥えたヨーロッパ貴族という、「刺激」の強さも更なる良い結果につながったのでしょう。
「外からの刺激」は、過剰なストレスになって、心身に悪影響をもたらすこともありますが、向き合う姿勢によっては、プラスに作用させることができます。12代が飛躍できたのは、「外からの刺激」と真摯に向き合い、それを成長の原動力にしたからではないかと感じました。
そして、外部の求めに真摯に耳を傾け、その期待に応えようとする前向きな姿勢が、人を成長させることは、芸術や美術に限らないとも思いました。
「外からの刺激」があれば、誰でも飛躍できるわけではありません。不遜かもしれませんが、美山で回った窯元も、魅力を感じたところとそうでないところとが混在していました。沈壽官窯と同じ風合いの「白薩摩」と呼ばれる焼き物を作っていても、精巧さが全く異なるのです。
沈壽官窯の細部までの徹底したこだわりをみながら、「外からの刺激に真摯に向かい合いながら、ここまで突き詰めた仕事をすることで、対応したい」。そう思わせてくれる、刺激に満ちた時間を過ごすことができました。
この原稿は、街オリ代表の佐々木が口述したものを、「コトミ 〜 言葉で見える形に」を活用し、ライターが書面化致しました。